あの日から12年が経ちました。時間とともに薄れゆく記憶。今こそあの日を思い出し、日頃から災害への備えを怠らないようにしたいものです。
東日本大震災10年目に掲載した記事を再掲載したいと思います。
東日本大震災から10年目の節目となりました。旅行・観光サイト「旅するweb」のコンセプトとは異なりますが、編集部では、この節目に、浦安市で起きた事その後考えた事、一人の浦安市民として、ここに記録を残そうと思います。
2011年3月11日(金)14時46分
その日、休日だった私は、普通の平日を過ごしていました。たいして見てもいないTVからは、午後の情報番組がいつものように流れていました。
午後2時46分、TVからけたたましい警告音と共にそれは始まりました。はじめは地鳴りのような縦揺れ、のちに大きな横揺れが始まりました。まるで、船に乗っているような、ゆっくりと大きく、それもいつもの地震のように収まるわけでもなく、どんどん揺れが大きくなり、室内の家具や吊り下げ式の照明をゆさゆさと揺さぶりだし、しまいには、吊り下げ照明は大きな音をたてて、天井にぶつかりだしました。
壁置きの家具も、壁に固定していなかったせいで、ゆさゆさと大きく揺さぶられ、ミシミシと音を立てながら、最後には、倒れてきました。
こうした事態に陥った時、実際は何もできないものだと良く分かりました。後日冷静になって考えると、家具の一つでも抑えれば、被害が少なく済んだかもしれませんが、その時は、どこまで揺れ続けるのか分からない不安、そもそも、家具を抑えていて危険はないのか?、今何をするべきか?、判断がつかないまま揺れに身を任せている状態でした。
揺れが、一旦収まった時は既に、室内は悲惨な状況になっていました。壁面に置いていた収納棚や、本棚が倒れ、扉やガラスが割れて散乱。本棚の本は床に散乱、とりあえず何をしたものか。とりあえず状況を見ようと、窓から外を見ると、遠く木更津や幕張のあたりに火の手や煙が上がっているのが見えました。
これはただごとではない、とんでもない事が起きている
おきてみれば、自分が生きている期間にこんな映画の出来事のような事が起きて、現実として生活に困ることになるとは、思ってもいませんでした。
とりあえず、地震発生直後は、何から手をつけていいのかピンと来ない状況と言うのが正直なところ。なぜなら、繰り返し余震で何度も何度も揺れるし、部屋は悲惨な状態で何から片付ければ良いのかも分からず。しばらくぼうっとしていたのを覚えています。
程なくして、停電。TVという情報が絶たれ、ラジオはなかったかと、とりあえず物置をさぐったり、水道、ガスはどうなのか?事態の把握からはじめました。
それよりも気になったのは、家族の安否。自分はたまたま自宅にいましたが、家族は仕事で東京都内。メールをするものの、返事がない、というかネットワークの状態自体がおかしく、正常に使えてない状態でした。
水道は断水。後で分かった事ですが、断水というより、マンションの給水というのはポンプでくみ上げているので、停電になるとポンプが停止して当然水も出ない、という状態でした。ガスも出ない状態でしたが、こちらはガスの元栓が安全装置で止まっているだけで、解除をすると使えるようになりました。
しかし、ガスだけが出たところでどうしょうもない状態。程なくして、夕方に向かいこの時期段々と気温が下がり寒くなってきたのを覚えています。暖房は、灯油ストーブを使っていたのですが、こちらも灯油ファンヒーターというもの。灯油なら暖房が入るかと言うとそうではなく、電源がないとファンが回らないので、当然暖房を入れられない状態。
そして、トイレ。断水なので当然トイレも使えず。良く言われる事ですが現代の生活がこうももろいものとは。ほとんど何もできない状態でした。
家族無事帰宅?!
夕方になり、徐々にあたりが暗くなり、停電の為当然照明もつかず。だんだん冷静になり、とりあえず何をするべきか。照明がないことには、何もできないので、真っ暗になる前に家中から懐中電灯を引っ張り出してきたり、とりあえずの飲み水、ペットボトルや食品の確認。
そして、気になる家族の安否。繰り返し、メールや電話をするものの通信網が混乱してるのか、返事が来ない状態。ここで家族の安否が優先と考え、一旦外の様子を見ようとマンションから外に出て見ました。
普段ならエレベータで降りればいいだけですが、停電なので当然階段。地上に出るだけで一苦労。外に出ると、その惨状は想像以上でした。
いわゆる液状化現象。マンションの駐車場はまるで泥の沼。至る所から泥が吹き出してドロドロのぐちゃぐちゃ。おまけに舗装があちらこちら大きくめくり上がっていて、とても車では乗り越えられない状態。車で家族を迎えに行くのは無理という事がわかりました。
これも、後からわかるのですが、道路は至る所尋常ではない渋滞で、車などで出かければ何時間も身動き取れない状態になっていました。
家族が無事帰宅したのは、夜も結構遅い時間。聞けば、交通機関はほとんどSTOP。会社を出たものの、途中からは徒歩。延々江戸川区のあたりから歩いて帰ってきたとの事。それよりも、恐怖だったのは、停電で暗い街、繰り返し来る余震、そして、あちらこちら隆起し、液状化でドロドロの道路。
一体、浦安はどうなっちゃたのか。そんな思いだったとの事です。
本当の困難は、マラソンのようでした
家族が、無事帰宅してそれは何よりでした。しかし、それは困難の始まりでした。現実、自宅は家具が倒壊、ものが散乱。停電、断水。
余震が収まらないため、当日家具を戻すのは断念したように覚えています。停電は当日かなり遅い時間に復旧。TVから情報が得られるようになりました。しかし、復活したTVからは信じれらないような惨状の数々が映し出されるのみ。しかし、こちらも被災者の一人。現実、トイレも使えない状態。映画を見るように傍観者でTVを眺めてはいられない状態でした。
翌日から、普通ではない生活が始まりました。マンションの自治会から非常食や水の割り当てがあると連絡があり、マンション備蓄の非常食や水をもらいに行ったり、念の為近隣スーパーへ行くものの、案の定、ペットボトルは売り切れに次ぐ売り切れ。カップ麺のような簡易食も棚は空っぽの状態。そしてレジは長蛇の列。
何日後の事だったか、記憶が曖昧になってしまいましたが、その後、自衛隊が近隣小学校に臨時のトイレを設営し、併せて給水トラックが定期的に到着するようになりました。
まさか、自分が、それも見慣れた浦安の街に迷彩服の自衛隊員が来て、給水活動をして、それをもらいに行くとは、想像もつかない出来事でした。
トイレが使えないので仕方なくそちらのトイレを利用したのですが、それはまるで戦場。行ったことはないので想像ですが、ペラペラの布で囲われただけのトイレで、風が吹くと捲れ上がるのでは?と思えるような簡易的なもので、到底安心して使えるような代物ではありませんでした。しかし、他にトイレがないで、そんな事は言ってられない状態でした。
地盤の違いだと思うのですが、浦安市は、新町と呼ばれる埋め立ててから年月が立ってない地域より、元町と呼ばれる古い埋立地の方が被害が少なく、断水なども解消されていることがわかりました。水に関しては、元町や中町といった被害が少なかった地域の公園へ汲みに行ったりしていました。
断水は1週間ほどで解消したのを覚えています。電気もついて、水も出て、やれやれと思っていたのも束の間、次の問題が発生していました。それは下水道です。
液状化の影響で新町の道路全体が液状化し、地盤が歪んだ状態になっていました。地面に埋まっている下水道が被害を受けていて、至る所継ぎ目がズレたり、泥が流れ込んで詰まったりで、下水が流れない状態になっていたのです。
マンション管理組合からは、下水道を使わないように連絡がありました。せっかく水道が出るようになったものの、水が流せないのです。当然、水は出るもののお風呂に入れません。それより一番困ったのはトイレです。トイレが流せないのです。
普通、夜寝る前にトイレに行くとか、当たり前の事だと思うのですが、トイレが使えない。自衛隊が設営した臨時トイレが近隣小学校にありましたが、もちろん家を出て、しばらく歩かないと行けないわけです。
程なくして、マンションの管理組合が仮設トイレの手配に成功して、敷地内に仮設トイレが設置されました。よくイベントなどでつかうやつです。自衛隊の仮設トイレと比べると壁もちゃんとあり、かなり改善されたものの、いちいち駐車中まで降りないとトイレが使えない不便さ、これは1ヶ月くらい続きました。
お風呂が入れない問題については、銭湯等を使うしかなく、お風呂に車で向かわなければなりませんした。しかし浦安市内、かなりの家が同じ状態なので、近隣の銭湯やスーパー銭湯は、どこも超満員でした。体を洗うのにも、洗い場に行列ができていて、並んで体を洗わなければなりませんでした。
当時、浦安市内のホテルが次々と市内在住者向けに、お風呂や、客室を開放して無料で使えるようにして頂いたことを覚えています。この時は、本当に助かり感謝しています。一時、液状化でドロドロの街を離れ、綺麗なホテルで過ごし、気持ちが癒されました。
そして困ったのは洗濯。排水ができないので、洗濯機が使えないのです。定期的に洗濯物を車に押し込んで、近隣のコインランドリーへ。ここも同様、同じく洗濯ができない人たちでごった返していて、洗濯するだけで半日仕事でした。その後、下水道が使えるようになったのは1ヶ月以上後の事でした。
また、同時に、もう一つ生活を困難にしたのが、計画停電です。電力不足が叫ばれ、事前に告知した日時に電電するというやつです。これが、夜間になった時には、照明がないので懐中電灯で生活するしかないのですが、困ったことに乾電池が入手困難になっていました。
これも、家電店をめぐってどうにか入手したり、被害の少なかった地方の親戚に送ってもらったりでしのいでいました。夕食どきに停電すれば、懐中電灯で食事をとる状態でした。食事自体も、下水道が使えない期間は、当然食器が洗えないので、紙皿や紙コップで食事、それも、そもそも紙皿や紙コップも入手困難。当たり前の生活がこんなにも困難なのかと思いました。
グレーの街を見ながら
上水道、下水道、電気、ガス、ライフラインが普及し、そして生活必需品、ペットボトルもトイレットペーパーも、概ね手に入るようになり、だんだん普通の生活が戻ってきました。
しかし、浦安市内のインフラは、まだまだの状態でした。最初は、生活自体に困っていたので、気にする余裕もあまりなかったのですが、だんだん余裕が出て、街の様子を気にするようになりました。
街を歩くと、一番気分を辛くしたのは、風景でした。街自体が液状化したせいで、至る所泥が吹き出し、やがてそれが乾燥し風で舞い上がり埃っぽく、街全体の色彩がグレーに包まれていました。この状態というのは、かなり長い期間だったように思えます。
道路の復旧は、そんな簡単ではありませんでした。よくマスコミで伝えられているように、マンホールは浮き上がり、舗装はガタガタ、電柱はあちらこちら傾いたまま、泥も表通りはどんどん撤去はされていましたが、一歩裏道に入ると泥が溜まったままという状態でした。
自宅の方の復旧は、徐々に、でした。倒れた家具を戻し、破損した箇所は修復や処分。飛び散ったガラスはしばらく、掃除をするたびに出てくる状態でした。そして地震を教訓に、全ての家具やTVなどの家電は、壁に固定して行きました。これは結構大変な作業だったのですが、やらなければならない作業だと思って少しづつやっていきました。
また、水や食品の備蓄です。これも、水のペットボトルを3年ごとに入れ替え、数ケース備蓄しています。停電にも懲りましたので、懐中電灯と当時困ったのは乾電池、これも懐中電灯分の乾電池を買い置きするようになりました。
その後も、余震はたびたびあったので、TVから例の警告音が出るたび、ビクビクしていたものです。また、車を運転していても、橋の上や歩道橋の下や電柱の隣で停車したとき等には、今大きな余震があったら、と思うと気が気ではない状態、これもしばらくの間続きました。
10年目の今日
本日の浦安市は晴天です。気温も高めで平和です。正直、10年前の出来事も徐々に記憶が薄れています。10年目の節目に、この日の記憶を残すために、投稿する事にしました。
しかし、今日現在も浦安市内では液状化対策工事が行われています。東日本大震災は実際に起こり、今でもその対策が行われています。
思えば、東北地方の被害が甚大だった地域、津波が襲い数多くの命が奪われた事実。それを思うと、浦安市の被害や、私が受けて感じた事は、大した事ではなかったのかもしれません。
今日現在、これは浦安市の問題ではなく、世界全体が新型コロナウィルス感染症の猛威に打ちひしがれています。3.11の事を思い出すたび、この困難な状態を克服できなくてどうするんだ、と思います。
津波で命を失い、家や家族を失い、街を失い、それでも前を向いて復興へ向かっている東北地方の方々の苦労を思えば、コロナウィルス感染症対策のため、マスクをする、飲み会を控える、リモートワークを推進する、密を避ける、この程度の苦労ができなくて、どうなんだろうと思います。
旅するweb編集部は、被災された全ての皆様へエールを送るとともに、コロナウィルス感染症を克服する為の全ての行動を応援したいと思います。